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放射性物質による汚染の影響

4月 7th 2011 in 日々所感

表題は仰々しいですが、中身は戯れ言です。放射性物質の拡大及びその影響の公開について考えてみました。
当初から心配していたことなのですが、「本当は汚染の度合いはさほど酷くなく、であるが故にあるいは混乱を回避するために、国民への発表は控えたい」が政府の本音だったのではないのでしょうか?しかしながら、目に見える形で原子炉の状況が露呈してしまったために、小出しに情報公開をしてしまった印象を持たれ、決して不必要な隠蔽はないのですが、マスコミが煽ってしまった気がします。もちろん東京電力や政府・民主党を擁護する気はまったくないですが、今も含めて事故当時の対応は仕方のない範疇っだたのでは・・・。現状の汚染状況も、悪いなりに影響を最小限に抑え、本来は人体や生物圏に悪影響を及ぼさない(影響を及ぼさないとは言ってませんよ)程度なのに、マスコミによる政府の過度の失態追及で、公式な発表事は信用できない風潮になってしまってるのではないでしょうか。もちろん事実を事実として公表するのは大切な事ですが、それが復興の妨げになるようなら、ある程度の情報統制もやむなしとは考えられないでしょうか。利権・既得権の保護や保身のための情報統制はもってのほかですが、国益という観点から考えると、なんでもかんでも公表し民意を問う姿勢の方が無責任な気がします。自分たちの選んだ代議士たちによる内閣なんですから、目先の行動にいちいち反応するのではなく、もっと信用する姿勢も大切だと思います。特にこんな大変な時期ですから、足の引っ張り合いをするのではなく、それこそ痛みを分かち合う気持ちで頑張りましょう。あつ、誤解の無いようにしてくださいね。ひとりひとりの国民はみんなそう思っていると実感していますが、・・・あくまでマスコミですよね、元凶は。

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3月25日でしたかね?東京電力の記者会見が静かになったそうです。私は観ていなかったのですが、何でも所属と名前を名乗らないと質問が出来ないシステムになったということで、今までとは打って変わって非常に静かな記者会見になったそうです。
匿名でなければ(この場合匿名という言い方でいいのかどうかはわかりませんが)突っ込んだ質問?(どちらかと言えば非難ですが・・・)ができないのかという議論は他に任せておき、私が気になったのはもっと精神的というか道徳的というか人の道みたいな部分です。
職業柄いろいろな学会や講演会によく参加するのですが、講師の方々に質問をする際には、まず自ら名乗り、感謝の気持ちを表してからというのは常識ですよね。記者会見の場合は、謝罪も含めて報告というのが大半ですから少し違うのかもしれませんが、やはりある程度というかせめて最低限の礼儀をわきまえるという姿勢があってもいいのではないでしょうか。大半の場合、会見に臨む側は質問する側の記者達より年配で地位も高い方々ですよね。しかも、当事者というよりは管理・監督者としての立場の方が矢面に立たされている状況(もちろん良い内容の報告記者会見もありますが)ですから、会見内容は別として尊敬し敬わねばならない方々に質問するという態度を見せていただきたいものです。報道とは真実を伝えることですから、発信する情報が重要なのはよく理解できますが、みるからに横柄で高飛車な質問をしている記者達を観ていると、「そんなあなたたちが言っていることなんか信用したくないですよ」と言いたくなります。質問する側もされる側も人の子ですが、それを観ているのも人の子です。真実を追究する報道の姿勢は十分理解していますが、それが十分説得力のある情報と思えるようになるには、まだまだ人としてのレベルを高めていく必要があるのではないでしょうか?(おっしゃる通り、自分のことはおもいっきり棚に上げていますが・・・)

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いつも読ませていただいているブログの感想なんですが、まさにその通りだと思えるものがあったのでご紹介。
よく「博学」とか「雑学王」といった言い方をします。ややもすれば少々揶揄された言い方に取られがちですが、私はそれがある種プロフェッショナルの資質であると考えています。もう数十年も前のことですが、環境分析の仕事をしている時期がありました。その中で、24時間365日稼働している自動分析機の管理を行うチームにいたのですが、この分析機を納めた施設が某自治体内に十数カ所あり、そこを通常ひとりで巡回して作業を行っていました。この仕事内容が極めて多岐にわたっており、化学分析の知識はもちろん、電気・電子・機械・気象といった学問的なことだけではなく、操舵・潜水・測量などおおよそ素人が手を出せない分野にまで及んでいました。また、大規模な分析業務ですから、機器に使う試薬類の量もかなりのもので(週あたり数十リットル単位)、調整装置まで自ら作製(手作りですがシーケンサーまで備え自動化された本格的なもの)していました。まさに特殊部隊と呼べる業務でしたが、ここで役だったのは「豊富な雑学量?」でした。分析業務ですから、さすがに化学に関しては本格的に勉強しましたし、潜水士など資格の必要なものは取得しましたが、それ以外はまさに知識の積み重ねが役立った感があります。べつだん努力をしたわけではありませんが、どのような分野でも、一見無関係と思える知識の絡み合いが必要であり、またそういった無駄に思える知識をたくさん備えていることがプロフェッショナルであると私は思います。専門家は専門家であり、特定の分野を深く掘り下げて探求する方々です。一方プロフェッショナルは、知識と知恵を現場で具現化し実践しなければなりません。そのためには、多岐にわたる分野の豊富な知識量が必要となります。
もうひとつ、私がプロフェッショナルの資質として考えていたのは、知識が豊富であることは必要ですが、疑問に思ったことは「勘」にたよって押し切らないこと。これも知識が豊富であればあるほど頃合いがわかってくることではありますが、危ない・やばいと感じたことは手を出さないことが重要です。命に関わるとかそんな大層なことではありませんが、安易な判断は必ず後で何倍もの労力を要する補填が必要になります。
ちょっと話が逸れてきましたが、要するに、プロフェッショナルの資質とは、特定の分野に特化した知識だけではなく幅広い知識の積み重ねと、その知識を活かす時・留まるときの見極めを確実に行うことであると考えます。
私が常々考えていたプロフェッショナルとはこういうことであったと再認識できました。

専門領域とは思考の基準点であるべきで、それ以外は判らんという種類のものでありたくない

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